零下45度・摂氏 ページ1 その1
私の手元にトルストイによって書かれた大叙事詩・「戦争と平和」がある。
米国で1968年に発行された英語版である。
多数のロシア人が、自由と、より良い生活を求めて米国に亡命あるいは移住しただろう。
従って、此の大作をロシア語から英語に翻訳するのは、さほどの苦労は無かっただろう。
この小説の出だしに、いきなりフランス語が出てくる。
“Eh
bien,mon
prince,,,,”
ここを米川正夫は、「ねえ、いかがでございます、公爵。」と訳している。岩波文庫・1984年
工藤精一郎は、「ねえ、いかがでございます、公爵。」と訳している。新潮社1972年。
和訳が同じだ、ということはここでは問題ではない。
トルストイは地主階級の出であるが、当時の事情を書いてあるその他のロシア小説を読むと、上流・貴族階級で、フランス人の家庭教師がよく出てくる。文化上、フランスがロシアよりも先進国だったからである。
ゴッホはオランダの画家であるが、フランスのパリーで絵の勉強をした。スペインのピカソは、この人もまたパリーに出て絵を大成し、共に世界の画家としてその名をなした。
まさに、「文化の都・花の都・パリー」である。
その2
ゴッホも、ピカソも19世紀、20世紀の人であるが、わずか一世紀〜二世紀昔のパリーは、「花の都」どころではなかった。
ここに、トイレについて、なかなかおもしろい話がある。少し長いが、次に述べてみよう。集英社文庫「はばかりながら」・浅利佳一郎の81ページより。
「18世紀のパリのトイレ」
18世紀のパリには公衆トイレなるものはなかった。もし緊急に排泄をもよおしたら、公園の片隅か教会や宮殿の壁の陰に隠れて排泄をした。とくにウンコは、公園内の大きな木の下をトイレとして使用する人が多く、パリの街の中にある公園の大きな木の下には、ウンコの山がいくつもでき、その異臭はパリの街全体に流れている有りさまだった。
その悪臭に辟易したアンジヴィエ伯爵は隠れてウンコができないようにするために大きな木という木を切り払ってしまった。そうなると門の陰や、辻馬車などの陰を利用するようになり、あげくには車の座席を便器替わりにするようになった。排出に余裕のある人はセーヌ川まで歩いていって川岸や川を利用した。セーヌ川にかかる橋の上からお尻丸出しの紳士、淑女の姿が望めるのがパリの名物風景ともなったのである。
その後「ここで大便をすることを禁ず。違反者には体罰を科す」という掲示が貼られたが、その掲示が貼られると同時に皮肉なことに「ここがトイレか」と違反者がどっと増えることになった。
その3
人間も動物の一員であるから(平凡社・世界大百科事典18巻662ページ)、毎日食べ物を口から入れ、養分を体内で取り込んだ後、体外に排出しなければならない。
それは、どんなに高貴なひとでも、「人」である限り、この法則から逃れることは出来ない。勿論、どんなに美しい人でも同じことである。
また、どんなに暑いところで暮らす人も、どんなに寒い所の人でも、同じようにこの法則に従わなければならない。
私が、第2次世界大戦後暮らしたヨーロッパ・タタール共和国のエラブガ市の捕虜収容所においても同じことだった。
その4
セーヌ川で、ウンコするところで想い出しました。あれは
60年以上も前、私が旧制中学校の生徒だったとき、国語の時間、先生の説明があって、「昔、我が国では、川岸にかけられた小屋で、用をたしたものだ。だから川屋、即ち「厠」という」と。
古代の人間は、世界中どこでもみんな同じことをしてきた。国語辞典にもそう書いてある。
さて、話を元の流れに戻しましょう。
エラブガは、ボルガ川の支流カマ川の右岸に沿って街が出来ている。ボルガ川は「母なるロシアの川」と、あちらの歌に歌われている。
正しく発音すれば「ヴォルガ」となる。
エラブガには捕虜収容所が二つあった。小さい方をA、大きい方をBと呼んだ。Aにはおよそ2000人、Bの方には訳8000人、合計約1万人の旧日本軍の将校が収容された。旧樺太〔現サハリン〕軍、旧北朝鮮軍、旧満州〔現中国東北地方〕軍、旧中国進駐軍の各日本軍の中から連れて来られた将校たちであった。
これら、A、Bの収容所には「先客」がいた。ボルガ川のずっと南の河口近く(といっても河口から約400km強)のスターリングラードで壮絶な死闘を演じたドイツ軍の将校たちだった。100人前後いたと思うが、そのうちどこかへ行ってしまった。「どこにいったのか」ロシア人に尋ねたいところだが、そうでなくても、こちらはスパイ容疑がかけられていたので、そういうへまな質問はいっさいしないことに決めていた。
これらドイツ人と都合1年近く、同じ収容所の中で暮らしたが、私が彼らから受けた影響はかなり大きいものがあった。
スターリングラードは「スターリンの街」の意であるが、戦後ボルゴグラードにかえられた。、「ボルガの街」の意、正しくは勿論ヴォルゴグラードと呼びます。
註・ボルガ川 全長3688km
信濃川 全長367km(日本最長)
その5
前置きはこのくらいにして、いよいよ本題に入ります。
北九州市・北緯33°53′ 東京都 北緯約35°10′ 札幌市・ 北緯43°3.4′ エラブガ・ 北緯55°48′
上の表は各都市が赤道から順番に遠くなって北極に近づいて行くことを示しています。
日最低気温の月別平均値(平成16年・理科年表・丸善株式会社より)各地とも1月が年最低値を示している。
福岡3.2℃ 東京2.1℃ 札幌ー7.7℃ エラブガー45℃
上の内エラブガのみ、資料を書いた書類を持ち合わせていないので、私が実地に体験した温度である。
その6
エラブガは、Елабугаと書き、三省堂発行の「コンサイス外国地名辞典・改訂版・1996年」の141頁に載っています。人口わずか3、2万の小都市ですが、とにかくこの辞書に載せられています。
真冬の厳寒には特別な言葉があって、露語でマローズ・морозといいます。ちょうど我が国に6月から7月中旬にかけてうっとうしい雨が降り続く時期を「つゆ」というのに対します。
この「マローズ」こそがロシアの最大の強みです。ヨーロッパのあらゆる国々を席巻し、1812年、余勢を駆ってロシアになだれ込んだ無敵のナポレオン軍は「一時モスクワを占領したがロシア軍の焦土作戦のため糧食に不足し、厳冬の到来をおそれて退却、帰途コサックや農民ゲリラの襲撃で多くの死者を出して敗走、9割以上の将兵を失う・平凡社世界史事典464ページ」
今月2月初旬、NHK衛星放送テレビで3回にわたり「ロシア・スターリングラード独ソ軍の死闘」が放送された。破竹の勢いでポーランドを突き抜けたドイツ軍は遙か遠くのボルガ川河口近くのスターリングラードまで突進した。だが、すでに御覧の皆様ご承知の通り、1943年1月厳寒がやってきたらドイツ軍は全く戦力を失った。
約33万のドイツ軍は、ついに残兵約9万となりソヴィエット軍に投降した。(平凡社・世界大百科事典12巻・495ページ)
その7
話の順序として、このあたりで私の行動範囲・勿論戦時捕虜の身分では、自分の意志で行動できるものではありません。常にロシア軍当局の指令により、こちらの本部でその人員が決定されるものです。
1991年・平成3年頃、今からもう13年ほども前のことになりましょうか、私の年表を、パソコンで作成していましたから幸いでした。
近頃は寄る年波と焼酎と帯状疱疹のため、かなりぼけてきています。来月で私は79歳になります。あと1年したら80歳となります。
自動車運転歴満50年・金線付き、をその時、きっぱりと自動車運転を止め、国に免許証を返上することにしています。
1945年・昭和20年・年末、私20歳、ヨ−ロッパロシア・タタール共和国エラブガAラーゲリ(収容所)に入る。まもなく通訳を希望する。註・大正14年生まれは、年齢は昭和の年数と常に同じでした。
1946年・昭和21年春先、21歳、第1次ボリショイ・ボール(大きい森の意)森林伐採隊数百人の通訳となる。
1946年・昭和21年晩夏、21歳、反抗的通訳の故をもってボリショイ・ボールを追放される。Bラーゲリに入る。
1946年・昭和21年初秋、21歳、コクシャン隊(数百人)の通訳となる。
1946年・昭和21年初冬、21歳、反抗的通訳としてコクシャンを追放されBラーゲリに戻る。註・反抗的通訳・反ソ・ミリタリスト・軍国主義者と言われ、追放されたいきさつは、私のホームページ「追放」をご覧下さい。
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