零下45度・摂氏 補 足


零下45度・摂氏 補足3 (2004.3.30記)

前回、補足その2で、ロシア厳冬時、フェルト製の長靴をはいてロシア人は雪道を闊歩している、と書きましたが、皆様の中には、「そんなことってあるの?」と思われる方がいらっしゃると思います。

そこで、それが間違いない証拠があるので、そのことを次にお知らせいたしましょう。

私の手元にトルストイの長編小説「アンナ・カレーニナ」があります。集英社・世界文学全集、工藤精一郎訳。

その第1部、17,の71ページ上段に次の訳文が載っています。

「厳しい寒さに白く濁った蒸気を透して半外套にフェルトの長靴の工夫たちが、引込線のカーブを横切ってゆく姿が見えた。」

次回は、下って真夏の酷暑についてお知らせいたします。ご期待下さい。

3月30日・本日私、満79歳となりました。
零下45度・摂氏  「補足その2・雪」
タタール自治共和国のエラブガでは、たしか10月頃から雪が降り始めました。もう
57年も前のことでさだかに記憶していません。

降り出すと、のべつ幕無しにやむこともなく空一面から落ちてきます。しんしんとふってきます。いえ、しんしんというよりも、全く音もなく降ってきます。

初めのうちは少し茶っぽい色が付いていますが、やがて無色・真っ白い雪になります。この収容所約一万人の捕虜は、推定6〜7割は、旧制大学・旧制専門学校の卒業生でしたから、こんな時、あっさりと、「最初の内は、空中に漂っている塵埃がいっしょに降るから、少し色が付いているのだ。降り続けるとやがて、無色透明の雪となる。」なんて軽くコメントを出す人がいます。帰国して総理大臣や大臣になった人、大学教授になった人など多士済々でした。私ども若造はもっぱら聞き役でした。

変わったところでは、宝塚音楽学校の先生、アメリカ日系2世の陸軍中尉殿などなど。

その内、一月、二月ともなると全世界が真っ白い雪一色になります。気温も零下40℃、45℃ともなれば、降り積もった雪を踏みつけるとキュッキュとかすかな音が鳴ります。

私は三年間、関東地方で過ごしましたが、そこで出会った雪とは異質のものでした。関東地方の雪にはまだ水分らしきものが残っていて、それが「牡丹雪」になったりします。辞書を引いても「ぼたぼた降る雪」などと書かれています。水分をしっかり含んでいるからですよ。(この辺のリクツは、私は雪の専門家・研究者ではありません。ただ体験したことを申し述べているだけです。独断専行があればご容赦くださいね)

零下45℃あたりになると、降る雪に「水分」が感じられません。「そんなことってあるの?おかしいねえ。だって雪は水から出来ているのじゃないの?」と言われるのはごもっとも。

私:「だって、水分があれば、それは凍りますよ。だから水分がないということ」
「?、?」、そうかなあ?

水分が無い証拠に、ロシア兵は真冬フェルトで作られた半長靴をはいているんですよ。それに外套といえば毛皮で作られたシューバ・шубаを着ています。皮が外,毛が内側になっていて、彼らは零下数十℃の時でも、この毛皮の外套を着て、フェルトの半長靴を履き、自動小銃を抱きかかえて、そのままごろりと雪の上でまどろんでいるのを、私は見ました。

真冬・厳冬のときロシア相手に戦うことの厳しさは、先日NHKTVで放映された独ソ両国の合同作成ドキュメンタリ「スターリングラード死闘戦」でもはっきりしています。


零下45度・摂氏 補足その@
右目白内障の手術は二日前無事に終わり、眼帯もはずしてすっきりしています。
次に、「零下45℃」の補足をお届けいたします。

少々ビロウなお話をお送りいたしましたが、ついでにとは、申し上げにくいのですが、もうちょっとだけお話することをお許し下さい。

あれは、たしか終戦の翌年、昭和21年・1946年のことだったでしょう。

例の「ボリショイ・ボール」・(大きい森の意)、初夏の頃だったでしょうか。私は一団の作業隊といっしょに近くの森の中にいました。

私は警備のロシア兵といっしょに並んで雑談をしていました。こちらの人数が多い時は、警備兵はよく男女のペアがついていましたが、このときは若い男のロシア兵が一人だけついていました。勿論自動小銃(当時、我々はこの小銃を「マンドリン」と言っていました)を持っています。

ところが、不意にその兵隊が何も言わずに、ふと10mほどの先の草むらに行ったかと思うと、すとんと腰を下ろしてうずくまりました。ちらりズボンを降ろすのが見えましたから、「出してるか」と私は思いました。ところで彼は、うずくまって2〜3秒もたったでしょうか、すっくと立ち上がり、ズボンを引き上げました。その間、ほんの数秒、これには私はびっくり!

彼は何事もなかったかのような顔をして私の横に戻ってきました。程なくして彼は私の横を離れて向こうの方に歩いて行きました。

そこで私は、早速彼がうずくまっていた場所に行ってみました。なんとそこには黄色いバナナぐらいの「落とし物」が一本、きれいな姿で残されていました。我々のもののようにぐにゃぐにゃか、びりびりか、又は重ね餅のようなものではありませんでした。

本当に「一本」きり、きれいなバナナのかたちのまま。
その時の私の感想は、「そうか、彼らの落とし物は、肉食人のものだ、我々菜食人との違いだ」ということでした。

それに彼はその後で紙を使った形跡がない、またその時間もない、まさに「電光石火」でしあげた。

昔、我が国の軍隊では「早メシ、早グソ」ということがいわれていた。戦争の時、瞬時に勝ち負けが決まる時は、どこの国でも、大なり小なりこの「軍隊常識」は通用されていただろうが、このロシア兵にかなう軍人は、そう滅多におるものでもあるまい。ロシア軍の強さの一端である、と私は確信した。

それから、しばらく経って、私が本部のあるエラブガB収容所に戻った時、洗濯場兼蒸し風呂浴場に行ってみた時、そこの従業員と話したことがあった。

ここでは、収容されていた我々旧日本軍人だけでなく、この収容所に関連するロシア軍人のものが、煮沸消毒後洗濯されていた。このとき、私が従業員に尋ねてみた所、彼らが言うのには、ロシア兵の下着には「落とし物」のあとがついている、ということだった。それで、私も納得した。

ところで、これらの従業員はすべてわが同胞・元軍人が適当に割り当てられて、その任務についていたもの。
あれは、月に一度ぐらいだったろうか(もう55年以上も昔のこと)、順番にこの浴場に入ることが出来た。

脱衣場で服を脱ぐと、たしか、それらはまとめて熱湯消毒に出され、終わったら消毒・洗濯済みの下着が与えられた、と思う。
風呂の中は蒸し風呂で、前もって蒸気がたちこめられていた。そこで洗面器1杯ずつのお湯をもらって、吹き出た汗を、それだけで拭く。オワリ。

総員の仕事の割り当ては、本部で決定され、あるものは、厳冬時を除いて、大小便の運搬係にもなった。
6〜7人でこれを運搬する人々を収容所の中で見かけた.4輪荷車の上に大きな四角い箱を載せて、ゆっくり運ぶ一隊を時々見かけた。
3月4日
      

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