補足最終回
この「補足・最終回」は、5〜6回か10回近くまで続く予定です。
「厳寒補足・最終回の1」

酷暑のお話をしようと思いましたが、私のドキュメンタリ中もっとも「おかしい」お話を忘れかけていました。次に逐次お届けいたします。ほんとに「おかしいですよ」。

「ボリショイ・ボール森林伐採隊」を追放された私は、その年の晩夏、今度は「コクシャン収容所」を追放されました。この2度の追放についてはすでに皆様にお話申し上げたところです。

「お前は,反ソの軍国主義者、ミリタリストだッ。」と申し渡されました。また、エラブガのBラーゲリにほうりこまれたとき、さすがの私も「くたびれた、というか観念したと言うか」、もの思いにふけることとなりました。

「こんなにロシア側とケンカしていては、ダモイ(帰国)出来るだろうか?」、「そろそろ路線の変更をすべきではあるまいか?」と、21歳の私は考えてみました。

「通訳をやめれば、ケンカもするはずもあるまい」ということにたどり着きました。

そこで、本部所属の大口主計中尉(現2尉)にお話をして、通訳を降りることになりました。大口さんは、「そうか、、、」と言って、後は何も言いませんでした。時に大口中尉殿は25〜26歳。私・少尉(現3尉)。続く。(4月1日夕方田部春雄)


最終回の2
 
通訳を辞める、ということは、一般のラボーチー・рабочий・労働者になることです。

エラブガ収容所には、下は少尉から上は大佐までの将校が約1万人、A,B二つの収容所に分かれて住んでいました。
私は、昭和20年・1945年の暮れ、Aラーゲリに入りましたが、程なくボリショイ・ボール森林伐採隊、追放後Bラーゲリ、それからコクシャン収容所、追放後Bラーゲリと移動いたしました。その後は帰国まで、ずっとBラーゲリに収容されていました。

通訳を辞めると、最初に割り当てられ、ボリショイ・ボール伐採地までの原木受領・運搬に当たることになりました。半年前、そこは、私が最初の通訳になって派遣された所でした。:2004年4月3日夜

「厳寒補足・最終回の3」

通訳をやめると、後は毎日ごろごろして暮らします。
暇な時、何か本を読みたくても、なにもありません。
「図書室」なるものがあったか、無かったか、忘れましたが、それらしいものがあったのでしょう。もう60年近くも前のことです。

でも、図書は限定されていて、ソ連の為になるものしかなっかったのでしょう。私はスターリンが書いたという分厚い本を借り出しました。いわく「弁証法的史的唯物論」なるものでした。
翻訳者は、たしか戦前にあちらに亡命したさる日本人のようでした。今ではその人の名前も忘れています。

春先に日だまりの中で、一生懸命に読んでみましたが、あまり理解することが出来ませんでした。帰国後、関連する図書を何冊か買い求めて、再度読んでみましたが、判ったとは言えませんでした。

そのうち冬がやってきて、いよいよボリショイ・ボールへの原木運搬の労働がやってまいりました。

                                4月8日

補足・最終回の4

もうそろそろ本題に入るところですが、私も老衰して忘れかけたところがあります。
従って、それを補う意味に置いても助けてもらう書き物が必要です。
昭和22年・1947年の夏、私が数人の同胞と共に、バシキル共和国首都のウーファに行き、例のバター工場の倉庫で、バターの樽を受領して帰りました。そこで、チャーミングなタタール娘に一目惚れされた、まことに懐かしいエピソードを皆様にご披露いたしました。

ところが、また汽船に乗りエラブガ港に帰り着き、Bラーゲリに帰ってみると、入り口の門の前にたくさんのものが並んで立っていました。「ダモイ」だと言います。
「お前の名前もあったが、不在のため取り消された」と告げられました。私の「くやしさ」はいかばかりだったことでしょうか。

このとき、先に帰国した人々の内16人の人々により、タタール共和国エラブガ収容所における体験記が発行されました。昭和24年・1949年4月15日発売。定価180円。

私は、その前年1948年の8月に帰国いたしましたが、買いそびれて、やっと手にしたのは、2001年・平成13年1月10日。どこを探しても、もうそんな本は見あたら無いので、インターネットで検索し、K.K.太田書店エイツー馬淵店より購入
いたしました。代金1800円、ぼろぼろの赤茶けた古書でしたがたいへんうれしいものでした。

「ウラルを越えて」という書名で、「若き抑留者の見たソ連」という副題がついています。大半の方々は旧制大学・旧制高等学校・旧制専門学校出身で年齢も、私より5歳ばかり多く、ただ今・現在85〜6歳です。階級も大半の方は主計中尉(現2
尉)、中に一人軍医中尉の方がいます。   4月13日


補足最終回の5

私のドキュメンタリが作り話ではなくて総て事実の通りであることをお示しするために、適当な引用が必須であることをお許し下さい。

前回お話しました「ウラルを越えて」から、もう一つの引用を次にどうぞ、
「収容所の管理」というテーマの元で書かれた、根本雄太郎氏の文章を次にお届けいたします。昭和17年・1942年旧制慶応大・法科卒・主計中尉。

「収容所における燃料は総て薪とトルフ・泥炭であって、このため遠くの山や森林には伐採隊や採掘隊が分遣されていたが、その集積所から往復15kmの間を8人の人間が馬代わりに大八車の曳き綱をえっさえっさと引っ張って運んで来る原始的な方法であって、雪解けや雨期の頃は押せども引けども車は動かず、重作業の最右翼として最も体力の消耗激しいものであった。それで件の副大臣に「人間が馬になるのはソ連だけであろう」と抗議した結果、「馬になってもらう積もりではなかったが、唯ガソリンが不足のため已むを得なかったのだ」と答えて早速自動車運搬に改められ、それ以来労務の負担が著しく軽減したのである」

根本主計中尉の上記文中の「遠くの山や森林の伐採隊」というのが、私が最初に派遣されたボリショイ・ボール伐採隊に他なりません。
「件の副大臣」とは、視察に来た「タタール共和国派遣の内務副大臣」のことです。4月16日 田部春雄

補足最終回ー6

皆さん、私はその後、依然として帯状疱疹に苦しんでいます。寒い内に「厳冬・補足」の総てをお送りしたかったのですがかないませんでした。年のせいです。同級生が半分以上亡くなりました。

さて、昭和20年・1945年の暮れ、私どもを載せたシベリア鉄道の囚人列車〔広軌の貨車)は、シベリア沿海州・日本海岸沿いにある寒村の駅を西に向け出発いたしました。そして、なんと約一ヶ月かかって、ウラル山脈を越え、ヨーロッパに入り、キズネールという田舎風の駅に到着。ここから80kmもある雪道をとぼとぼと南に向け歩き始めました。約1000人の旧日本軍捕虜は降りしきる雪の中を歩きました。負け戦の兵隊のつらさ。

80kmと言えば20里、鉄道で言えば、門司駅から博多駅の一つ先の南福岡駅まであります。日豊線なら門司駅から宇佐駅まであります。途中倉庫のようなところで三泊、ごろ寝したような記憶があります。

目的地エラブガに着いたのは12月31日の真夜中、もうすぐ1946年・昭和21年でした。気温は推定零下25度〜30度ほどだったでしょう。年をとった人々は凍傷にかかり、エラブガ収容所到着後、入院して足の指を切断手術された人も何人かいました。続く。5月7日田部春雄

最終回-7

1946年・昭和21年の1月になると、収容所の集会所の一室で身体検査が行われました。
外は雪が降り積もっていましたが、室内はペーチカでもたかれて幾分暖かくなっていました。

窓を背にして女の軍医が腰掛けていて、その両側に若い女の看護兵が二人腰掛けていました。
軍医は大尉(現1尉)。今度の独ソ戦では、2500万人のロシア兵、並びに民間人が死んだ、といわれます。従って軍医はほとんどが女の軍人でした。我が国では、今時太平洋戦争では3百数十万人の犠牲が出た、といわれます。ロシア人の損害の大きさがどれだけ大きかったかわかります。

さて、身体検査では、下半身をすっぽり丸裸、3人のロシア女兵の前に、一人ずつ立ちます。性病、梅毒の検査ということでした。
外は極寒、毎日の食事は少なく腹の皮と背中がすり合わされるようなひもじさ、だれも彼も縮みあがった「ムスコ」をさらけだしていた。

こんなはずではないのに、こんなにみすぼらしい姿を見せて、とは我々の誰もが思ったことでしょう。「残念、無念」というのがみんなの思いだった。

ここで、「文芸春秋」・臨時増刊号…1982年・昭和57年9月発行、「読者の手記・シベリア強制収容所」から次の愉快な記事をご紹介しましょう。

その1.大分県臼杵市の根之木澄夫さん(商店主の投稿文:202−203ページよりー投稿文のままー)

『、、、想い出したように、便意を催す。私は作業の合い間をみて、戸外で「それ」をやった。もう出そうでも、なかなかに用を達し得ない。この日、零下30度近くの戸外は、素手でも20秒と耐えられないほどの寒気である。ましてや日頃耐寒訓練をされていない丸出しで吹きさらしの下半身が、それに耐えられるはずもない。
この時、実際に時間を計ったわけではないが、多分1分近くを要したのではなかろうか。
やっとの思いで、なんとか用を済ました私は、俯いて”ヒョイッ”と股間を覗くと、何と愕いたことに、<男性自身>が、全く血の気を失い、まるで蝋燭のように真っ白く、しかもその先端に宿った一滴が、すでに凍って氷柱(つらら)状になっているではないか!「アッ!!」と悲鳴に近い声がほど走り出た。凍傷なのである。
大慌てで<男性自身>を、両手にさし挟み、さらにその両手を外から両股で締めつけて、躯全体でゴシゴシと必死に揉む。やがて血液が循環してくると、場所が場所だけに、錐・きりを揉み込まれるような激痛が奔るが、凍傷は、この痛みを感じたら、もうしめたものである。
その日から私の<男性自身>は、見るも無惨な水疱となり「火傷」と全く同じである、医務室といっても、それは応急のごくお粗末なバラックだった。

ところがである。
あろうことか、中尉の肩章をつけた、年の頃30ぐらいの、見事な体格をしたソ連軍の女軍医が、皮肉にもその治療に当たってくれた。
何とその彼女が、患部と私の顔とを交互の覗き込むように見比べながら、あっけらかんと言ったものだ。
「ヤポンスキー、ホイナー、マーリンキーうっふっふ、、、」〔日本人の持ち物は、小さいのネエー)
この時、私22歳の童貞である。
いくらシベリア呆けしていたにしても、抵抗のなかろうはずはあるまい。
それは、患部の治療、というよりもむしろ、引っ張り、捻り、ひっくり返し、、、、まるで物珍しい玩具をもてあそぶ、といった感じだったのだから、、、、。』

以上、根之木さんの投稿文のままです。
次に、鳥取県名和町出身の山口憲敏さん(教員・59歳)の投稿文をお届けします。この特集は昭和57年の出版ですから、その時私は57歳でした。だから、山口さんは私よりも2歳年上です。この特集号74ページより、投稿文そのママをつぎにお知らせいたします。

『尻つまむ女医の香水春の風」の見出しが付いています。山口さんのお付けになったものでしょう。

毎月1回体力検査がある。宿舎前に集合させられる。ズボンを下げ尻をまる出しにして一人ずつ女軍医の前に出る。女医の動きにつれて香水の匂いが漂う。絶えて久しい娑婆の匂いである。女医は一人ずつ尻をつまんで皮下脂肪を検査しABCDと区分する。まるで肉牛なみである。ABは労働可、Cは軽労働、Dは保養隊に送られて体力の回復をはかるのである。
「ヤポンスキー、マーリニキー」(日本人、小さい)女軍医は旧関東軍勇士のシンボルを指でつついてひやかす。「何をいうか、使う必要がないから遠慮しているんだ、いざという時には十倍にはなるぞ。」女軍医は捕虜の返事に笑い出す。』

以上が山口さんの投稿文をそのまま書き出しました。我々のエラブガ収容所では前に私がお知らせしたように、身体検査は、到着後1回きりでしたから、山口さんはどこか別のラーゲリに収容されていたのでしょう。

「関東軍」とは、旧満州・現中国東北地方に駐在した日本軍、ソ連軍との衝突に備え、当時我が国最精鋭の軍隊であったが、南方戦局の激化の為、逐次南方に転出、弱体化した所、ソ連軍の参戦により一挙に壊滅した。平凡社・世界大百科事典5巻380ページより要旨を転記した。5月9日

トップに戻る