| カリンカ |
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つい先ほど、飛行場に面した本部の前で、部隊長が話したことをもう一度反すうしてみたが、私の頭はただぼうっとしていて内容が少しもまとまらなかった。そして、わずかに4カ月前のことが走馬燈のように思い出された。 ・・・私どもを乗せた数十の軍用トラックは、焼けただれた東京の町中を砂けむりを巻き上げて進む。一面の焼け野が原、ところどころにぽつんぽつんと残った鉄筋ビルの残骸、金庫。うつろな目をした人たちが住んでいるらしい防空壕、無惨にも破壊しつくされた我が帝都の姿である。最もすざましいしょうい弾攻撃のときは、焼けていく速度の方が、人の走る速度より速かったというから、誰も彼も焼け死んだ。あれは、どこへんだったろうか、顔がのっぺらぽうの人が歩いていた。顔じゅう焼けただれている、白い薬を顔じゅう一面に塗って。着ている着物からやっと女の人とわかった。宮城前広場の松がほとんど赤く焼けただれていた。土まんじゅうが方々にできていて、おびただしい機関銃が空をにらんでいた。 航空士官学校を卒業したばかりの我々一行は宮城の中にはいっていった。天皇に拝えつの栄によくすためだ。宮城もかなり焼けていた。屋根、屋根の上には無数のゴムホ−スが走っていた。元栓をひねればどこでもすぐにそのままで水が放出されるようになっていたんだ。我々が「頭(かしら)中(なか)っ!」をして、一斉に天皇の顔に注目したが、天皇は黙って立っていた。すぐ横に杉山元帥がはべっていたが、何事か陛下にささやいた。拝えつの終わりであった。二等車で下関へ、だれもかれもが恩賜の煙草をプカプカふかした。生まれてはじめてすう煙草にみんなよってしまった。そこらじゅう一面嘔吐物でおおわれた。 下関で一泊、近くに住んでいる近親者が大勢同期生を見送りにきていた。おそらくこれが最後の別れになるかもしれないのだ。つぎの日、特別仕立ての関釜連絡船に乗り込む。港を出るとまもなく、大きな魚雷をかかえた飛行機が一機、どこからともなく現れて、船上をぐるぐる回り始めた。多くの船が米潜水艦の餌食になっていたらしい。特にこの船は「我々が乗っているから」厳重に警戒されているということらしかった。 釜山から大陸鉄道で「けいじょう(ソウル)」へ。プラットホ−ムも満足にない駅駅では多くの朝鮮人が汽車がとまると我先に乗り込んでくる。ある駅で我々が乗っている二等車によじのぼろうとする一人の胸を同乗の車掌が蹴上げた。彼は音もなく砂の上に崩れ落ちた。大陸に住む日本人の「偉さ」に私は度肝をぬかれた。回りの朝鮮人たちが無念の眼(まなこ)で車掌をにらんでいた。 「けいじょう」に着くとすぐ軍用トラックで朝鮮軍司令官邸へ。板垣君が東京を発つとき、長距離電話で父君に連絡していたそうだ。竜山にある官邸はまったく御殿のようだった。緋の毛せんが床中に敷き詰められている。休憩室の卓上には巻き煙草がふんだんにおかれてあった。片隅に置かれているグランドピアノをむちゃくちゃにたたきまわす者がいる。軍司令官との会食で私は初めてアスパラガスというものの料理を食べた。酒がどんどん運ばれてきた。給仕をしている娘さんたちは何れ劣らぬ美人ぞろい。我々の接待のため集められた良家の子女だそうだが、我々にはそれよりも酒のほうに魅力があった。しこたま飲んで私は毛せんの上にへどを吐いたところまで覚えている。 気がついてみるとトラックは「けいじょう」の町中を走っていた。総督府−美術館(天井に描かれた天女が妖艶だった)−公園−「朝鮮神社」を回った。高い石段を登って、「神社」の境内から見た「けいじょう」は彩りが美しい都、そして周囲を取り囲む禿山が印象に残った。 北鮮の白い砂の上にポツンとたった小さな駅が「かん興(ハムフン)」駅である。駅前に髭づらの下士官が出迎えていた。 それからは、毎日飛行機操縦の訓練が続いた。
我々の所属する飛行隊は、この地方、かんきょう南道の中心地「かんこう(前出)」の南西約25キロ(推定)に位置する連浦(れんぽ)にある戦闘教育飛行隊であった。ここで、我々陸軍航空士官学校卒業の見習士官100名ばかりが訓練された。燃料が少ないようで、ふんだんに乗るというわけにはいかず、たしか一回の搭乗時間は数十分ほどだった。練習機はノモンハン戦のときの実戦機だった97式戦闘機。飛行訓練は、いつも、編隊をくんで一機ずつ急降下していく。ただそれだけ。射撃も、爆弾投下も、通信も、まして航法も一切なし。まさに「特別攻撃」の訓練。爆弾を機体の下に固定すればいつでも出撃できる。まっすぐ敵艦に突っ込めばそれで終わり。 訓練がすむと、一機を十数人ばかりでえっちらおっちらと押していく、100メ−トルも200メ−トルも離れた掩体壕まで。朝、訓練が始まる前、そこから引き出してくる。 昨日、教官のうち、10名ばかりが特攻隊に指名され、白はちまきで出撃していった。皆、部隊長の最後の訓示を神妙な顔で聞いていたが、能面のような表情だった。いずれ我々もこうして出なければならない、と思うと感無量だった。しかし、その夕刻、この特攻隊は、ウラジウオ方面から出てきた敵艦を攻撃する目的であったが発見出来なかった、といって帰ってきた。「九死に一生を得た」とはこのことだ・・・ そして、今日は「終戦(?)」 たしかに部隊長は「終戦」といったんだ。これからいったい日本はどうなるんだ?おれたちはどうしたらいいんだ?横で寝ている二、三の友達はうつろな目をしてただ黙っている。 「逃げよう!」 Sが吐き出すように言った。 「そうだツ」 皆が思わず一斉にうなった。 田んぼのあちこちに掘られてつくられた三角兵舎からぞろぞろと皆がはいだしてきた。 「白頭山に逃げよう!」 「いやいや、船で日本海を横断して帰るんだ」 異論続出である。Iは白頭山組である。もう軍刀の装飾をばらばらに取り外している。 その軍刀は細身の小刀だったが、父親から贈られた国宝級のものだという。 その夜、私はそっと穴倉を抜け出した。いくつかの星がうすぼんやりとでていた。遠くの方で何やら訳のわからぬ歌声が流れていた。朝鮮の人々が声高らかに歌う解放の喜びに違いなかった。広ばくとした北鮮の平野が暗闇の中に広がっていた。二、三の農夫らしい男に出会った。皆、手に手に鍬や鎌をもっている。護身の為に違いない。私も思わず腰の軍刀の鯉口を切っていた。半道も行くと部隊の将校官舎についた。どの家も静まりかえって、明かりが薄ぼんやりともれている。 ・・・突然、前方から異様な人影が近づいてきた、大きな男だ、あたりはかなり暗くなって人相もまったくわからない。殺気を感じて私はじりじり左にまわった。相手も無言、脇の下からたらたらと汗が流れ落ちた。 「だれかっ!」相手が吐き捨てるように低い声で言った。 「あっ、俺だ」日本人の声にほっとして私は返答した。 「な−んだ」と相手。 それでも二人は注意しながら近づいた。見ると飛行場大隊のM大尉である。 「どうしたんだ、今ごろ。うちに来いよ」彼は気軽に私をさそってくれた。すぐそこに彼の官舎があった。 「どうしたんだ、一体?」ウィスキ−の瓶をあけると、私の顔をまざまざとみつめた。 「負けたね、とうとう・・・」 「はあ・・・」 「さっきは、お前、命を落とすところだったよ」 「えっ?」私は酒によどんでいる彼の目を見つめた。彼の話すところによると、彼もまた出合いがしらに殺気を感じ、まさに軍刀をはらうところだったという。剣道は五段の猛者で居合い抜きの達人という。私の命は風前の灯火だったのだ。 「運のいい奴だ」と言うと、彼は大口を開けて笑った。彼の質問に答えて私は簡単に我々の計画を話した。二、三日中に有志とつどって白頭山方面へ逃げること、それには護身用として拳銃がいること、拳銃をもらいに将校官舎まで来たことを。いちいちうなずいて聞いていたが、彼はつと立ち上がると押入の奥から革ケ−ス入りの拳銃を取り出してきた。小型のブロ−ニング連発銃である。 「しっかりやれよ」という彼の言葉を背にして私はそそくさと官舎を出た。 次の日、私達は全員三角兵舎を引き上げて、僅か4、5日ぶりにまた部隊に帰った。部隊本部の方はなんだかそわそわしていて、何の達しもない。命令系統の崩壊が始まっている。 夕方、私は風呂から出ると正門前に出かけていき、柳の並木を数本切り払った。私の軍刀は「かい行社」製のいわゆる「きせい品」だったが、その切れ味の良さに一驚した。最後の木はかなり太い、拝み打ちに切り捨てた。右足のすねあたりに小石が飛んできて当たったようだった。見るとゴム長靴が2センチばかり切れている。 「おや?」と思って私は靴を脱いだ。将校服のズボンがずたずたに切れている。ズボンをめくり上げると白いズボン下が真っ赤に血で染まっている。急いで門外の酒保にかけ込んだ。そこのおばさんに包帯をしてもらった。顔見知りの将校が一人ぽつんと酒を飲んでいた。 次の日、部隊の下士官が一人逃げたという知らせが届いた。私が探してくることにした。敗戦の報と同時に各種の部隊−ある部隊は遠く満州(現中国東北地方)、支那(現中国)の方から流れて(?)きていたが−我々の飛行場に集結していたので、はだか馬がそこらあたりに、ごろごろ繋がれていた。その中の一頭を引き出して口に一本綱をかませた。白頭山行の途中はだか馬を拾った時のことを想定して私はわざと「ろく」をはませなかった。練習にもなる。誰かが「多分、興南の方だろう」というので馬の鼻を東へ向けた。 拍車!馬は一気に駆けはじめた。むっとするような真夏の熱気がそのうちにさわやかな冷風にかわる。遥か彼方の興南の山々がぐんぐん近づく。途中の村落で、青年達が十名ばかり手に手に猟銃や刀を持って集まっているのに出会う。真夏の大陸街道を狂気のように疾走している旧日本軍将校をあっけにとられたように見つめていた。私は万が一のことを思って軍刀を膝の上に置きなおした。 峠を越えるあたりから興南の町が続く。朝鮮人が皆じろじろ私を見る。三里ばかり走り続けたので、愛馬は白い泡を吹き出してのろのろになってしまった。左手の丘丘にきれいに並んでいるのは窒素工場の社宅だろうが誰一人顔を出していない。憲兵隊はすぐ見つかった。 「下士官が逃げてこなかったか?」ときいたが、「もうそんな事をきくほうが無理」といわんばかりの顔をして応対の軍曹が首を横に振った。そして「この町もだんだん物騒になっているから早く帰隊したほうがいいだろう」と言った。「何か馬に食わせるものはないか?」と尋ねたが「なんにもない」という。「さらばそれまで」と再び馬に乗った頃には、もう日もだいぶ西に傾いていた。思うように速度が出ない、拍車が擦り切れるほど馬の横腹を蹴る、朝鮮人たちの無言の見送りが気味悪い。辺りはかなり暗くなってきた。彼方に飛行場の灯がうすぼんやりと見えだしたころ、愛馬はすっかり疲れきってしまった。もうとぼとぼと歩くだけ・・・ 突然彼方からものすごく明るい光を照らしながら数台のトラックが近づいてきた。最後の車がすうっと私の横に止まった。見るとロシア兵が乗っている。はじめてお目にかかるロシア軍だ。「まずい」と思ったが、「あわてては事をしそんずる」・・・ゆったりとあかるく話しかけた。 ”Can you speak English?" 何やらわからない様子でもごもごしている。「わからないな、将校もいるのに」と私は思った。(つい二年ほど前にロシア語の基礎教育を受けていたが、ロシア兵とはじめて会ったとき、とっさに出たのはロシア語ではなくて英語だった。それから数カ月後、私はいやというほどにロシア語を話すこととなる) 彼らはきょとんとして首を横に振るとそのまま発車していった。一安心、大陸の夜気が冷え冷えと首筋に流れていった。やっとのことで部隊に帰りついた。馬に水を飲ませて辺りの松の木に繋いだ。くたくたに疲れきった体を寝台に投げ出すとそのまま引きずり込まれるように眠った・・・
後記:以上は、もう三十年も前に原稿用紙に書き付けておいたもの。最後の三枚は鉛筆書きだが、字がうすくなっていて見にくい。で、この三枚はオミットした。よくぞ書き付けておいたものだ。今では、71歳にもなって、もうすっかり忘れ去っていて「こんなことがあったのか」と思い出してなつかしい。 あれから何日かたって、ソ連軍が正式にわが飛行隊に進出してきた。わが部隊は残存の飛行機を飛行場に並べ、各種兵器を兵舎の前に整然と並べソ連軍に引き渡した。私は例のブロ−ニング拳銃をもってそっと便所の裏に行った。汲み取り口のコンクリ−トの蓋を持ち上げすとんとそれを落とした。音もなく底のほうに沈んでいった。この拳銃は一度も発射されることなく消え去った。士官学校で拳銃の射撃訓練を受けたことがある。大きめの南部式拳銃をまっすぐ伸ばした右手に持ち、反身に構え10メ−トルほど離れた的を撃つ。5、6発ほど撃ち込んだが100パ−セント近い的中率に驚いたものだ。 8月15日の天皇陛下のラジオ放送は部隊長の訓示で知った。あれだけ激しく戦った我々日本人はすっかりおとなしく降伏したものだ。一部の終戦反対・反抗の行動が見られたようだが、概して素直に武器を置いた。天皇陛下の「ご命令」があったからこそ日本人は従順にアメリカ軍やロシア軍の軍門に下ったわけだ。これをすなわち「陛下のみいつ」と言う。 あれから我々は近くの宣徳(せんとく)飛行隊の官舎に移った。この飛行場は爆撃機の訓練をする特操(特別操縦見習士官)の部隊であることをその時知った。官舎には家族は一人もいなかった。塀の外を時々ロシアの番兵が通る。ある時、明らかに朝鮮人とわかる平服の男がロシア兵と並んで歩くのを見た。流暢なロシア語を話している。驚くことはない、当時極東のロシア軍には朝鮮人の将兵がたくさんいたのだ。ここで一か月ちかくごろごろしていた。官舎の周囲には柵といったようなものはなに一つなかった。 それから中宮(ちゅうぐう)か、興南(こうなん)の収容所に移った。どちらの方だったか今思い出せない。数キロも離れているのに。ここではいよいよ厳重に隔離された収容所に追い込まれた。寝る場所も狭くなった。これからいよいよ本格的な捕虜となったのだ。時々、板塀の破れ目から、朝鮮人が持ってきた油であげた麺棒を手にいれたがあれは手持ちの何と交換したのだろうか?それも忘れた。それから何日かして、興南港から船に乗った。「ダモイ」(家に、国に−帰るという意味のロシア語)の声が流れて来た。捕虜たちのはかない希望から生まれたのか、それともロシア側の故意に流した謀略なのか?わからない。在ソ旧日本軍将兵は誰もがこの「ダモイ」という言葉の亡霊に悩まされ続けたに違いない。 船は明らかに北の方に進んでいる。「北海道だ」と、まだ信じている。やがて見渡すかぎり荒涼とした港についた。迫りくる寒気の中で我々はついにロシア・シベリア大陸の一角に連れてこられたことを知った。 1996年5月7日 田部春雄 |
この「敗戦記」は、これから先、約2年半ウラル山脈の向こう、ヨ−ロッパ・ロシア、ヴォルガ河畔のエラブガ収容所でのいろいろな体験を述べ、1948年8月12日舞鶴港に復員するまでの人生を書きつづる予定だったが、折りにふれその分は書いてきたので、これで終わりとする。
MIDI:サイト「童謡・唱歌の世界」より カリンカ