| 帰れソレント |
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「スワ、ただごとならじ!」私はそう思うと声のする方へすっとんでいきました。 「どうしたんだ!」私のロシア語がとびちる。 「こいつは、サボタ−ジュをしやがって・・・皆が働いているのに・・・5メ−トル向こうに立て・・・野郎ッ」 この軍曹は、たしか南方のグルジアかどこかの産で、丈は私と同じ160センチメ−トルちよっとのずんぐりした、見るからに獰猛な軍人でした。(この軍曹を我々はみんな「ブルドック」とよんでいました)。祝日などには胸いっぱいに戦功章をズラリ吊るしていましたが、平素は、あまり冗談も言わない堅物でした。スタ−リン・グラ−ド(スタ−リンの町の意、現ヴォルゴ・グラ−ド=ヴォルガの町の意、独ソ戦争の決戦地)の独ソ戦で大奮戦したということで、顔には一面戦傷の跡がありました。 激烈な対独戦の消耗で、第二次大戦終了直後のソ連(現ロシア)は疲弊しきっていましたが、それでも兵器類はアメリカの援助を受けていたのでしょう、最新のものです。銃弾もわが国のそれとは違い豊富に持っていました。ある時など、警備のソ連中尉が何事もないのに、空に向けてピストルを一発ぶっぱなすといった具合です、無造作に。威嚇のつもりでもあったのでしょうか。 前々から私はソ連兵といろいろと話し合っていて、彼らの言によれば「捕虜の一人や二人を撃ち殺したからとて、営倉(軍隊で、懲罰令によって規則に反した兵をとじこめる建物)に何日か入ればそれで終わり」ということはよく承知していました。捕虜が逃亡しようとしたからとか反抗してきたからとか弁明すればそれでおしまいでしょうから。戦後、一年も経っていないのでそれも道理だったでしょう。 さて、これは大変だ、私はそう思いました。これは本気だ、本物だと思いました。くだんの日本人中尉殿は、ロシア語はわからなくても、雰囲気は直感しています。もう顔面蒼白、半泣きの状態です。 終戦直後は、捕虜に対する食料の配給は少なく、いつもひもじい思いをしていました。将校に対しては、自活の為の労働といわれるものでも我々にとっては厳しいものでした。だから、つい、草むらの陰で横になって休みたくもなるわけです。 軍曹の指は、確実に自動小銃の引き金にかけられています。発射寸前!ここで、ある思いが私の頭の中を駆けめぐりました。 ・・・ソ連では、民主的、民衆的な軍隊とでもいいましょうか、殴打は絶対に禁止されている、かりに上官であっても兵卒を殴れば、理由の如何を問わず直ちに降等、一兵卒になる・・・という説明を私は彼らから常々聞かされていました。 ここは、殴打が日常茶飯事になっていた旧日本軍とは決定的に違うところでした。現に、私たちがソ連にいた丸三年の間、上官が兵卒などを殴るのを見たことは一度もありませんでした。「反ソ的、反抗的」な通訳として何度も追放され、取調を受けた私すら、一度も殴られたことはありませんでした。この種の降等は確実に行われるようで、私は一警備兵から写真を見せられたとき、彼がかつてモスクワ(ロシア語ではモスコ−をこう発音します)の将校で(たしか中尉の肩章をつけていました)あったことを確認しています。 「これだッ!」私はとっさにそう思いました。「逆手にとるんだッ」私はほんの一秒の数分の一の早口でその中尉に説明します・・・ 「芝居をしますよ、殴るから」それだけがやっと。口上が長くなればいかに単純そうな軍曹でもわかる、 「このばかやろうが、なんで、このやろう」日本語はどうでもいいわけです、ただどなりちらせばいいんです、私の右手が中尉の顔面を数度ヒットする、中尉殿がよろめく、軍曹殿があっけにとられている・・・ 「おれが十分にこらしめてやるから、許してくれよ」私はそう言って軍曹殿の方に振り向く、 「むぅぅぅ・・・」軍曹殿がうなる、 「いいだろう?」 「仕方ねえ・・・」軍曹殿がむっつりして、やっとそう言ってくれました。中尉殿の口もとから少し血が流れていたかな? いずれにしても、かくしてこの一幕は無事に下ろされました。 (終わり) 俊彦、英彦へ 以上の話は、父の実話・ドキュメンタリ−である。ある人にあてて手紙風に書いたもので、実際にその人宛てに送ったものである。こうしてワ−プロ(一太郎)を打っていると、いろいろと頭を使うからぼけなくて良かろうと思っている。 語学のことで、2〜3書き残したことがあるので追加する。昨年(1994年)の春ごろだったか、直美がキンダ−ガ−テンに入る頃、よく電話で「友達の話す英語がわからない」と直美から言ってきていた。それから数カ月後の7月、じいちゃんとばあちゃんがアメリカ・ヴァ−ジニア州のフォ−ルズチャ−チ市に行って直美に会いにいってみたら、なんとネイティヴと同じ発音で英語を話しているのを聞いてじいちゃんはびっくりした。人間はやっと物心がつくころ外国で生活すると自然とその国の言葉を覚えるものである。例えば、わが国に来ている外国の人でも、小さい子供達が親よりも先に日本語を覚え、しかも何らなまりのない日本語を話す。親の方はいつまでたってもなまりのある言葉をはなしている。 親のなまりがとれるのは、住み続けても多分10年やそこらかかると思う。 前回も書いたように、父は士官学校でロシア語を一年間勉強した。どんな外国語でも、父はとても興味を持っていたからロシア語も懸命に勉強した。 父は、どんな学校にいっても、語学と数学だけは好きで懸命に勉強した。逆に言えば、その他の学科は余り身をいれて勉強しなかったことにもなるかな。それでも、どんな学校でも、行けば行っただけの価値があって、前述下関商業短期大学に一年と何ヵ月か通ったとき、それまでは独学してもなかなか分からなかった複式簿記の理屈がすっと分かった。 ロシア語の勉強は僅かに一年だったが、アルファベット(勿論、ロシア語の)が読め書け、初歩的な文法がわかっていたから、現地でいったん話し始めるとその進歩は誠に急速であった。 1945年8月15日、わが国が連合軍に降伏したとき、父は北鮮の現ハムフン(日本読みで、かんこう)西南の連浦(日本読みで、れんぽ)飛行場にあった。数日もたたないうちに進入してきたロシア軍の捕虜となった。それから1〜2カ月後、近くのフンナム(日本読みで、こうなん)からロシア船で北上、ロシア領に入る。港の近くの丘の上にたてられたテントで何日か過ごした後、いよいよ貨物列車に詰め込まれ、ぐんぐん寒くなったシベリア平原のまっただ中を、西へ西へと進む。一列車の貨車数2〜30車。時はたしか12月。 給水のためにハバロフスクの駅頭にたった。ここは北緯48度31分でそれほど最北にあるわけでもないのに厳しい寒さのところだ。婦人が天秤で両方にかけているバケツの水がちょうど油のようにゆっさゆっさとゆれている。表面の水が今にも凍りそうになっているのだ。列車の乗り降りに手すりを握った手がピッタリと凍り付いて離れない。生まれて初めて経験する厳寒。 ウラル山地にさしかかった。いつか、「この山地は地球のしわのようなもので、はっきりとした山脈ではない」ということを学校で勉強したような記憶があったが、事実その通りで気をつけなければ、いつ入いったか、いつ出たかわからないようなところだった。この山地を越えるといよいよヨ−ロッパ、頭の中にロシアの地図を描き、生まれて初めて来た大陸になにがしかの感慨があった。それからなん十時間かして 我々の貨物列車はキズネ−ルという名の小さな駅についた。ここで列車を降りた我々千人ばかりの捕虜たちは、もうすっかり降りつもった真っ白い雪の道をとぼとぼと歩いていった。ずっとあとになってわかったことだが、その時はどの方向にどれくらいあるいているのか、まるきりわからなっかた。零下数十度の厳寒の中を何日か歩き続けた。夜は倉庫かどこかで寝たように思う、50年も前のことになって記憶もおぼろになった。この行軍で年配の人は何人も凍傷にかかり、ラ−ゲリに入ってから手足の指を切った人が何人もいた。父はちょうど二十歳の若さだったからなんとか難関をきりぬけた。 かくして、我々は前述のAラ−ゲリに入った。1945年の年末ごろか、1946年の初頭ごろのことだった。シベリア鉄道にはおおよそ1カ月間乗っていた。ダイヤの間を縫うようにして走ったからだ。この間、父は、何人もの日本人捕虜がロシア兵から腕時計、万年筆などをとられるのを見た。父は目につくようなものは持っていなかったが、なに一つとられたものはなかった。片言のロシア語で積極的に話しかけたからだ。自分の国の言葉を下手でも話そうとする者を嫌うものはいないものだ。 さて、Aラ−ゲリに入ってまもなく、父は積極的に通訳を希望した。この時点では、ロシア語を話せる人の絶対数はとても低かったから。その時、ロシア語が話せた人は、旧満州のハルビン学院を卒業したもの、東京外語専門学校(現東京外語大学)、大阪外語専門学校(現大阪外語大学)、それから、陸軍幼年学校でそれぞれ3年間ロシア語を専攻したもの達である。ここで陸軍幼年学校の説明をしておく。この学校は旧制中学校の1年か2年からはいるもので、3年で卒業すると、陸軍士官学校に入る。幼年学校に入るのは相当な難関で各中学校の一番か二番でもないと入れなかった。この学校に中学2年ではいったものが、中学校を5年で卒業した父と同時に士官学校に入った。このようにして3年間勉強したものと、1年間だけ勉強した父との差は歴然。 「ペレヴォ−チック(通訳)!」ロシア守衛長の呼ぶ声が響く。父は厚く敷き詰められた堅い雪を蹴って守衛所にすっとぶ。痩せた顔の、少し手がなぜかふるえるロシア人の中尉が それから1〜2カ月後、父は年表にある通り、ボリショイ・ボ−ル伐採隊の通訳となった。しばらくして、一隊の通訳で数キロ離れた村まで出かけた。村の人々は珍しそうに始めてみる日本人を取りまき私に話しかける。 「お前は何年ぐらいロシア語を勉強したか?」 「何年と思うか?」 「6年ぐらいだろう?」 「6カ月!」 「えっ?」とそのロシア人がびっくりする、 1995年11月26日 父より |
たくろうの名曲玉手箱オルゴール曲からお借りしてます