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こちらが黙っていると、立ち上がって部屋の中をコツコツと靴音をたてて、歩き回る、腕を後ろにくんで。このスタイルは取調官が変わっても変わらない。 在ソ中、この種の取調を3〜4回ほど受けたが、なぜ父のような下級将校を取り調べるのか合点がいかなかった。考えられる理由は二つほどしかない。 一つ目は、反抗的な通訳だったこと。二つ目はかなり流暢にロシア語をしゃべっていたこと。国際法により、将校の捕虜には重労働を課してはならない、という。我われ捕虜の中には大学(勿論旧制)の法科をでたような人はたくさんいたから、それらの人々から伝わったものに違いない。 「今日はこれこれの仕事をせよ」 (父)「そんな仕事は国際法で禁止されている」 「自活のための仕事だ」 (父)「だれ誰は病気で仕事ができない」 「そんなものは病気ではない」 このようなことを、間にたって通訳せねばならない。こちらの指揮者は状況を把握しないまま、いいたい放題の抗議を並べ立てる。いきおいロシア側は腹をたてる、通訳に向かってどなり始める、父も若気のいたりでどなり返す。ある種の正義感からだ。「同胞」が苦しんでいる、これに立ち向かわずして、何の日本人ぞや?といったふうの思いがあった。こちらの方にも一応指揮者はいるが、実質的には通訳が代表になる。そして必然的に父が「反ソ、反抗」分子ということにされる。 「お前はスパイ教育を受けただろう?」もし、それが本当なら、父の今はなかっただろう。どこの国でもスパイは重罪だから。1944年、太平洋戦争終結の前年11月7日ゾルゲ・尾崎秀実、スパイの故をもって死刑執行。1951年3月29日(米)ロ−ゼンバ−グ夫妻に死刑判決(たしか原爆の秘密漏洩の罪) 「スパイですって?・・・なぜ?」 父は小さいときから言葉には異常というほどに神経質だったから、外国語にたしても、その発音には特に気をつかった。だから、多民族国家のソ連では父のロシア語は、とりたてていうほどのなまりがあるとは認識されていなかったのだろう。われわれがいた収容所はタタ−ル自治共和国にあったから、その地域にはロシア人(白人種)のほかは東洋系のタタ−ル人が多くすんでいた。これがひどいなまりで話す人も多くいて、収容所の内外でいろいろな雑役をこなしていたあるタタ−ルのおじさんのロシア語はひどかった。標準語のロシア語ではアクセントのある前後の" O" は「ア」と発音される。たとえば、夜の「おやすみなさい!」を英語のabcで書き表すと"Spokoinoi noti!"となる。"Spokoinoi"は「安らかな」、"noti"は「夜を」の意味である。"Spokoinoi"の発音を片仮名で書くと「スポコイノイ」となるが、アクセントは「コ」にある。前後の" o" はロシア語では「ア」と発音されるために結局「スパコイナイ」となる。前述タタ−ルのおじさんは、ここのところを「スポコイノイ」と発音するわけだ。話し初めのころは"o"は「オ」と発音してくれるので分かりやすかった。 通訳になると、誰でも、どの言葉でも同じようになるだろうが、一日24時間のうち、8時間寝て、2時間を雑用に使うと、残りは14時間。父の場合、そのうち日本語を話す時間は多分1時間だったろう。従って残りの13時間はのべつまくなしにロシア語を話していたのだ。これぐらい話せば、やる気のある人ならきっと覚えていくことになる。 「私がここに来たとき、1年(あるいは1年半)ばかり前、私がどれほどひどいロシア語を話していたか、その時のAラ−ゲリの何とか守衛長(中尉)さんに尋ねてもらえばわかりますよ」 この返事はかなり効果があったよう。 ここで、ちょっと、父はどうやってロシア語を勉強したか、話しておきたい。前にも書いたように、第二次世界大戦後のロシアはすっかり疲弊していた。ものすごい激戦だったから、その戦争に巻き込まれた国々は日本はいうまでもなくすべての国がへとへと、死の寸前だった。 紙が無い、鉛筆が無い。ロシア語を勉強するのに、書き留めることができない。なんとかして書くものを手に入れ、紙をさがす。無いから新聞紙の周りにある幅2〜3センチの余白に書き込む。当時、比較的に早い時期から、捕虜向けの日本字の新聞が配給されていた。帰国後わかったことだが、ロシア全土、特にアジア地区の収容所から集められたアクティヴ(岩波国語辞典:ロシア語、積極分子。共産党などの組織の先頭に立って活動する人)達によってこの新聞は作られた。その中には、戦前からの古い党員などもいたらしい。東大を出たものもいたそうな。 勿論、辞書なんてまったく無かった。父はわからない単語に出くわすと、よくロシア人に尋ねた。男は面倒くさがって、親切には教えてくれないもの。そこで女、特に若い娘さんか子供に尋ねる。辛抱強く、その単語を使って三つも、四つも文を作ってくれる。文脈から意味を類推する。接続詞などもいくつか文をつくってくれると分かるものだ。ロシア民謡の三つや四つはこうやって娘さんたちにならった。その中には、この日本では誰一人知らないはずの、ロシア民謡が一つ入っている。文字が書けるからその採取が可能。若くて、音楽が好きだから、そのメロディも覚えて帰った。戦後、わが国ではロシア民謡がはやっていて、3年後の1948年に帰国してみると、いわゆる「歌声喫茶」というようなところで、盛んに歌われていた。そこで父は、当時歌声運動の一方のリ−ダ−だった関 鑑子(せき・あきこ)さんにDmで父なりに採譜したものに、ロシア語の歌詞をそえて送ったがなしのつぶてだった。その歌詞とメロディは今でも覚えているから、いつか書きおくることにしょう。関 鑑子さんはその運動により、たしかレ−ニン賞をもらったはず。その時父がおくった手紙は途中で故意に没収されたかも。 さて、父にたいする取調の最終回、取調官が言うのに「お前はロシアに残って、ロシアのために働かないか」という誘いがかかった。こういった誘いにのって残留した通訳が何人か、何十人かいたことが、ここ数年か10年の間に判明した。特にあのベルリンの壁が壊され、ソ連が崩壊し、その内部がさらされ始めてからこれらの人びとが明るみに出てきたのだ。 関 鑑子さんに送った民謡は、たぶんタタ−ルの民謡だったかもしれない。今ちょうど、NHKのテレビ外国語講座放送・ロシア語の時間に、ロ−マ字表記で "OGONYOK"という歌が放送されている。アクセントは一番最後の音節にあるから、前に述べた理屈によって「アガニョック」と発音される。「ともしび(灯)」という意味。父が当時から大好きな歌で、たしか英彦の結婚式(小倉、大門のひびき荘)の時、父がロシア語で歌ったはず。この歌の曲譜は楽器店なら、どこでも売っているから、あらかじめ買ってきて俊彦に渡した。この歌はたしかボリショイ・ボ−ルの半地下室で若いロシア人スェストラ−(英語のsister・看護婦)から習ったはず。彼女は腰にピストルをぶらさげ、スカ−トをはいた女性兵士だった。 さて、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦の略、崩壊前の名称)側の勧誘に乗って、残留した人々の身の上はどうだったのか?これらの人たちの手記がぼつぼつ出ている。それによると、大方の人は、言葉が出来るから、通訳、翻訳などに携わり、放送局の日本語アナウンサ−などになった。数十万の同胞たちが重労働などで苦労しているとき、ロシア人の奥さんなどをもらって、かなり良い生活を送ったようだ。そのかわり「崩壊」後、いくらか生活がたいへんになったかも。そうでなくても、彼らの祖国・日本が、相対的にみて良くなったから、郷愁も湧いてくるというもの。「禍福はあざなえる縄の如し」だ。 1938年1月3日、岡田嘉子(おかだよしこ)・杉本良吉、樺太(からふと)国境をこえソ連に亡命(岩波:日本史年表)。当時の花形女優の岡田嘉子、たしか新劇の新進演出家だった杉本良吉。杉本についていったと言われる岡田。1972年11月13日元女優岡田嘉子、34年ぶりにソ連から帰国(岩波:日本史年表)。二人はソ連の共産主義にあこがれて、入ソしたとわが国では言われていたのに、ソ連崩壊後、だんだんとわかったことだが、この二人はスパイ容疑をかけられた、といわれる。そこで、二人は別々に切り放された。そのうち杉本は銃殺、岡田はどこかに流され、当局の監視のもとにおかれたといわれる。やがて、岡田はモスクワの演劇大学で学んだそうな。 それ以前、岡田は杉本と死別後、前述のようないきさつでアナウンサ−をしていた日本人捕虜の某と結婚したそうな。演劇大学卒業後、演劇関係の監督として働き、ソ連の年金をもらうようになったそうな。1972年、34年ぶりに、祖国日本に帰国。マスコミ等の歓迎をうけ、テレビなどにもでていたが、数年後ソ連に帰っていった。どうしたのだろうか?年もとっていたから、そのまま日本にいても無理はなかったのだろうが、居心地があまり良くなかったのだろうか。祖国では元亡命者、むこうでは元スパイ容疑者。良い人生といえるだろうか?その後何年かして彼女はかの地で人生を終わった。 俊彦、英彦へ これで「スパイ」の項を終わる。こうしてみると、スパイの容疑をかけられると、大変なことになるのがよくわかる。父は「九死に一生を得た」といってもよいだろう。もっとも、「通訳!」と声がかかり、すっとんでいけば「お前は何もわからんからダメッ!」といわれたと申し上げれば、誰でも納得。数日前、「スパイ」で3枚送った、今2枚送るから、合計5枚で「スパイ」シリ−ズを終わる。 1995年12月9日 父 |
MIDI:サイト「童謡・唱歌の世界」より ボルガの舟歌