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〜ロシア捕虜記第3話〜

黒い瞳

HP再開の言葉・「帯状疱疹を患って、数ヶ月間安静にして(?)いましたが、残り
の在ソ中のドキュメンタリをお届けいたします」。2003年5月


タタール娘のこと
第2話(農業指導員)にもタタールの女性の話をしたが、こんどのタタール娘は格別に若く、そして、東洋系の黒いヒトミをもった美人だった。歳のころ17〜8だったろう。
第2話の夏が過ぎる頃、1947年夏、ダモイ(露語・帰国のこと)のうわさが収容所の中に広がっていて、みんなの間にはそわそわした雰囲気がただよっていた。
秋風が吹き始めたとき、私はほんの5〜6人の同胞といっしょに、マースロ(露語・バター)の受領に旅立った。
あの簡単な桟橋のある例のイェラブガ港から、川船〜両側に水車のようなスクリューのついた古めかしいがロマンチックな船〜に乗り込んだ。
なんといったか、2m近くの大男**軍曹が一人、カンボイ(露語・護送兵)として我々に同行した。
乗客はすべて一般のロシア人ばかりである。こちらにとっても珍しいが、そのときのロシア人たちも、もの珍しそうに私に話しかけていた。
軍曹は一隅のロシア人たちを払いのけて私たちを座席に座らせた。立っているロシア人もたくさんいるというのに、捕虜のぶんざいでゆっくりと座ることができるのは、この國のいいお国柄である。文句をつけるでもなく、当たり前のような顔をしてロシア人たちはつっ立っていた。
向こうの方で、軍曹は(妻帯者であることを私は知っていた)もうどこかの若い娘とイチャツイている。「うまいことをやってらア」内心私はそう思い、それを横目でチラリと見る。


タタール娘のこと・2
船は湖のように広いカマ川を上流へ上流へと上る。
両岸は広大な原始林が果てしなく続いてすばらしい眺めである。歌が始まる、誰ともなく低音でつける、コーラスのはじまりだ。見事なハーモニイが生まれる。ロシア映画・「シベリア大地の歌」に出てくる大衆のコーラスの光景は、コルホーズやその他どこに行っても見られた。


やがて日が暮れると、船内の人々はまどろみかける。斜め前の席に寝ている男は、例のジュラルミン製のチマダン(露語・トランク)を枕にしているが、片手はちゃんとその取っ手をつかまえていた。
あちらのほうの軍曹たちは横になって抱き合っていた。

翌日、目的地ウーファについた。ビルディングの立ち並ぶ近代的な都市だった。バシキール自治共和国の首都で、人口47万(1956年)というから大都会にちがいなかった。話に聞けば、今時大戦でドイツの科学者たちが収容され、ロケット等の研究開発に利用されたところだという。


タタール娘のこと・3

前書きが長くなったが、この物語のクライマックスがやってきた。
かなり坂の多いこの町の中を我々を乗せたトラックは、とある古めかしい工場の前に止まった。入り口の大きな扉を開けると、そこが前庭になっていて、すぐ左手に地下倉庫の入り口に通ずる十数段の階段がある。この倉庫の中から、一抱えほどのバターが一杯詰まった丸い樽を一つずつ抱きかかえてきて、乗ってきたトラックに積み込むのである。

たいして通訳することもないほどに単純な仕事である。私はトラックの上に乗って皆が持ってくるその樽を受け取っていた。
われわれが仕事をするまわりには、この工場の従業員たちが20人ばかり集まってきた。彼らは口々に適当な冗談をとばしながら、おそらく初めて見ただろう日本人を好奇心のまなざしで眺めていた。彼らの口調には、捕虜や囚人に対する侮蔑感がないのはどうしてだろうか。これも、この國のお国柄としか言いようがあるまい。


タタール娘
のこと・4

樽を積み上げている私に彼らはめいめい思いおもいの質問をあびせてくる。私は適当に相づちを打つ。そのなかに一人年若い娘がいた。黄色い声を投げかけてくる。ヒトミと髪がわれわれと同じように真っ黒で白い肌をしたタタール娘だ。お地蔵さんがしている首飾りのような模様がついた、例の独特な襟をもった上着を着ている。仕事着だからたいして上等なものではなかった。それでも少しばかり憂いをふくんだすばらしいまなこの美人だ。


二、三言何やら私に質問を投げかけた。周りの彼女の同僚たちが、「アイヤイヤー」とひやかしながら、いかにも茶目っけな表情で彼女をやじる。
そのうち、彼女はつと一人で地下倉庫におりて行った。上ってくるとき、バター樽を抱えてきて、ツカツカと私の足許まで来ると、こう言った。
「これはあなたのために持ってきたのよ」周りに立っている男女の従業員が、「ワーッ」と声を挙げた。口笛を吹く。皆、彼女を冷やかしているのである。なかなかうまい表現である。私は、一瞬その意味を考えてみる。「あなたが好き」ということだ。あまりひやかされるので彼女はまた皆の所に戻った。
「あたし、あんたが好きッ」そこで再び皆の喚声。

「いつ、年期があけるの?」収容所を私が出る日を訊いている。
「もうすぐさ」と私。
「出たら、私を迎えに来てッ」

「ああ、いいとも」と私。
「日本にはお母さんがいるの?」彼女の声がだんだん大きくなる。姑の話が出た。どこの國でも同じ問題。「いるよ。いてもいいじゃないか」
「・・・」彼女。

いつ期限があけるのか私にわかったものではない。ほんとに迎えに来るのか、それも私は知らない。捕虜にそんなことができるだろうか。
彼女はもう真剣なまなざしである。私を凝視する。確定した未来を知らないで、いかにも真面目そうに私は返答しているが、しかしそれは全くの冗談でもなかった。「のぞみ」とでもいう私の真情が、私の言葉をつくっていくのだろうか。
話はこれだけのことである。捕虜にこれ以上の何ができただろうか。

トラックは私たちを乗せてバター工場の門を出た。
「きっとよッ、迎えにきてねー」彼女の金切り声が私の耳朶に残る。前の同乗席にすわっている軍曹はただ何事もなかったようにボケッとして座っていた。
その名前も歳も聞き忘れたこの娘には、たしか、カチューシャかナターシャとかいう名前を付けるのがふさわしかっただろう。

このバター受領の旅から帰ったとき、Aラーゲリ(A収容所)の門のところで、長い行列に遇った。「ダモイ」だと列の中にいる同期の誰かが言う。「お前の名もあったが、不在のため消されたよ」一瞬、私の頭から血の気がスーッと引いた。「チキショーッ」私は無言のまま頭をうなだれた。私のダモイ(帰国)はこれから半年以上遅れて1948年8月のことだった。
22歳の秋は、かくしてタター娘の想いとともに寂しくふけていった。

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