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「ペレヴォ−チック(通訳)!」の呼び声に半地下式の宿舎を飛び出す。十数歩も走るともう出入口の扉のところに来る。頑丈に作られた柵の向こう側に収容所長がつったっている。目がつり上がっている。 「私物を持って30分後にこの門のところに来いッ!」 とっさに、私はその理由を納得した。すぐ地下室に戻り、私物−−−その頃、私物などあっただろうか、コップ(アルミ製の)と、あとはこの身に付けているものだけ。木製のフォ−クやスプ−ンもあっただろうか?もう忘れてしまった。小さなずだ袋一つ持っていたようにも思う。その中には何が入っていただろうか?もう忘れた−−−そういった私物を持って外に出た。唐突なことで、そのあたりの前庭にいた何人かの同胞がびっくりしている、 「田部さん、どうしたんだい?」 「皆さん、私はここを追放されます、さようなら、皆さん、お元気で、さっき巡視に来たロシアの少将、モスコ−から来たんですが、少将に思いきり不満をぶちまけてやったんですが、、、もう時間がありません、皆さん、さようなら、、、さようなら、、、」 これだけしゃべるのがやっと。ほとんど大部分の人々は(全部で100人余りいましたが)半地下の部屋にいてこの事件については何も知らなかったでしょう。後でいろいろと憶測が生まれたことでしょう。 門の外にでると空のトラックが一台止まっていて、私は後ろの荷台の方に乗り込む、すぐ発車。かなり薄暗くなった林の中を西の方にばく進する。辺りにはまったく人家は無く明かり一つ見えない。脳裏にコンクリ−トの壁で四方を囲まれた監獄の一部屋が浮かぶ・・・誰も私の行く先を知らず、私は人知れず消されてしまうだろう・・・ その日は、モスクワ派遣の将官(少将)の査察があった。腹の周りが2〜3メ−トルもあろうかという赤ら顔の大男だった。 数日前から収容所長は躍起になって収容所(半地下式の)の清掃で我々を責めたてた。少将がやってきたのは、たしかその日のひるすぎだった。 我が方の隊長は K少佐だったが、この人はおとなしいが決断が少しにぶい人だった。そこで私はよく、それまでの毎日の交渉では、私なりの考えでもって、少佐の発言、交渉にブレ−キをかけたり、リ−ドしたりすることが多かった。 ロシア人の収容所長は申すに及ばず、この日本人の少佐殿も、ロシア軍少将の前で、オロオロ、ビクビクしていた。若気のいたりで私には何も恐れるものはなかった。21歳になったばかりだったから。 「マラリアで高熱があるのに、作業を休ませてくれと申し出ても、収容所長はなかなか休ませようとしない。『マラリアは、ここでは風土病で、病気のうちに入らない』と所長は言って取り合ってくれない。けしからん、国際法違反だ・・・」私は思いのたけを、少将を仰ぎ見ながらまくしたてた。(それから一年ばかりして、私もBラ−ゲリでこのマラリアにかかった。体温41度。42度になると人間は死ぬと物知りが言った。頭の中が煮えたち、意識ももうろうとなる。便所に行こうとしても、その内に自分が今何をしているのかわからなくなる。こんな症状だった) 少将は、けげんなことに少しにこにこしながら私の抗議を聞いている、自分の胸元ほどもない小さい元日本軍の陸軍少尉が何か文句を言っているわい、といったふうに怒るでもなく耳をかたむけている。「ふんふん」と言って聞き流しているだけ。少しは効き目があるかな?と私は思う。そうしてこの少将は数人の従者を連れて帰っていった、何事もなく・・・ それから、私が半地下室の寝台のところに戻って数十分すると収容所長の至急呼出しがかかったわけだ・・・あの少将と所長とが話し合ったものか、それとも所長だけできめたものか、それはわからない。 |
MIDI:サイト「童謡・唱歌の世界」より仕事の歌