追放・その2・前半
1946年・昭和21年晩夏、私は、反抗的通訳の故をもって、ボリショイ・ボール(大きい森の意)を追放された。
同年初秋、今度は、コクシャン収容所の通訳として数百人の同胞と共に派遣された。通訳の指名はソ連側の選定ではなくて、我が方本部の選定、指名が許されていたから、再び私にお鉢がまわってきたものである。
この、ウラル山脈の西、ヨーロッパロシア・タタール共和国のエラブガ市にあった日本軍捕虜収容所、A,B二つのラーゲリ(収容所)には、約1万人の旧日本軍の捕虜がいた。そのほぼ99%は少尉から大佐までの将校だった。
中には、旧東京外語、大阪外語、ハルピン学院(元満州・現中国東北地方の)、早稲田露文科、等でロシア語を専攻したものもいただろうが、名乗りでることはあまりなかった。
スパイ容疑をかけられることを心配したのかもしれない。なお、旧関東軍でも一部の兵士たちに露語を教育したことだろうが、そのような人たちも名乗り出ることは少なかった。
旧陸軍幼年学校の生徒の一部と、陸軍士官学校の生徒一部に対して、ロシア語の教育が実施された。
私もそのうちの一人だが、基礎教育を受けただけで、外国語の勉強が好きなことで、進んで通訳を希望した。
最初の数ヶ月は、ロシア人の言うことがさっぱり聞き取れなかった。
これまでの私のドキュメンタリは、今からもう40年近くも前に、書き残していたもので、その頃は、ロシアから帰ってきて20年ほど経ったころで、かなり覚えていたが、これから書き付けようとするこの「追放・その2」と、この真冬に書いてみようとする「零下45度の厳冬下の大・小便の次第」とは、相当な日時が経っていて、記憶がおぼろげなところがある。
さて、コクシャン収容所に向け、初秋のある日、私は数百人の同胞と共に、エラブガB収容所を後にした。
陽が明るい内に出発したが夕方近くなると、秋とは言え、寒々しかった。おおかた、北の方に向かって歩いた、と思うが、私は用心深くいつも、距離や方向はついてくるロシア兵に尋ねることはなかった。それまで、1〜2度「お前はスパイ教育をうけただろう?」と取り調べを受けていた。この後も帰国するまで2〜3度取り調べを受けた。距離や方向が一番尋ねたいことであったが、じっと我慢した。
あたりが薄暗くなる頃、どこからか、「おから」のようなすっぱい食べ物が回されてきた。配給のものか、なにかもわからなかった。だれか物知りが言った。「ヨーグルトだ」。生まれて初めて食べたヨーグルトだった。すっぱいことをおぼえている。
かなり薄暗くなって我々はやっと目的地のコクシャン収容所にたどり着いた。一日中歩いていたから、多分40〜50kmは歩いただろう。もう冬がすぐそこまで迫っていた。
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